ダンスにとって音とはなにか (浜口彩子作品の音楽解読)


 より少ない音のほうがダンスによい結果をもたらす――。ダンスの音楽を担当する時は作品ごとにアプローチを変えている。しかし上の実践的な方針だけは変わっていない。

 以下は浜口彩子のダンス作品に音楽面で関わった際の,様々な制作アプローチを記した文章だ。ダンス音楽は,映画音楽ほど方法論が確立されておらず,ありモノの音源をそのまま使うケースも多い。両者の可能性の追求が放棄されているようにも感じられる。だからこそ実践的なアプローチの仕方を記し,両者の深い関係の一端を示すことが,価値ある作業につながると思う。

 ただし,こうした試みが作品自体の面白さにプラスになるかどうかは定かではない。作品は作者の手元を離れ,観客の受け取り方の中に存在するからだ。

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「レモンボム」の主要なモチーフは,2003年の夏にブリュッセルのローザスのスタジオで浜口と行った約1週間の集中作業によって得られた。モチーフ以外にも,ここで培った経験は,ダンスと音について理解を深めるのに非常に役立っている。

最も重要な発見は,音楽で流れを作らないことだった。音楽で流れを作ることは簡単だが,ダンスは難しい。メロディーの持続と,それに乗ったダンスという構図は,動きそのものの自発性を埋没させる効果があることに気付いた。音楽に合わせてイージーに時が流れていく麻痺的な感覚は,なんとしても受け入れ難かった。困難であっても,ダンス自体で流れを作るほうが作品はリアルになる。これ以後,浜口彩子との共同作業は,ダンスの構成がほぼ決まってから作曲作業に入るスタイルを踏襲することになる。

音楽で流れを作らない

この方法論を推し進めたのが,横浜ダンスコレクション ソロ×デュオ<Competition>+(プラス)の群舞部門にノミネートされた浜口彩子の「5/6,200,000,000物語」(2004年)である。この作品は空港が一つのモチーフとなっているが,音楽面ではジャン=リュック・ゴダールのソニマージュ(音=映像)の考え方を大きな柱にした。音は単に動きに付随したものではなく,お互いが独立しアンサブルを構成すること。つまり動きと音の対位法である。両者の緻密な配置によって,作品としての高まりを生み出したかった。

この作品の振付は,音が全く無い状態で音楽的なアンサンブルが見えた。斜めのラインを強調した空間の大胆な使い方や,4人のダンサーによるモチーフの対比など。振付が音楽と同じ次元に位置していた。動きに対して,音のカウンター・パートを作るのに相応しい材料が揃っていたのである。

なお,作品のモチーフとなるテーマは,あえて浜口からは詳しく聞かなかった。テーマに沿いすぎた音楽は,時として陳腐な表現につながるからだ。音楽は音楽として独立した立場を取るほうが,多元的な解釈が生まれ,作品が面白くなると信じている。

身体の限界に合わせた音

 実際の作曲作業は,振付がほぼ固まった段階でダンスを撮影し,そのビデオ素材をコンピュータに取り込んでPro Toolsのタイムライン上で視覚的に音群を構成していった。対位法とまでいかなくても,単に音と映像のズレを表面化させるだけでも,新しい効果が得られた。  

ただいくつかの音の要素を,一つの音楽として混ざり合わないようにする工夫が必要だった。一つの音楽となった時点で,大きな流れが生まれてしまうからだ。そこで,音の要素をテクスチャの面で違いが明らかな自然音,ピアノ楽曲,弦楽の3つに大きく分けた。それぞれをフレーズごとにブツ切りにして固まりを明確にした。  

また,振付と音を等価に扱う視点を明確にするためにも,モチーフの長さ(duration)に注意する必要があった。ダンサーの身体能力には限界があるが,音はいくらでも持続する。  

具体的には,動きのdurationと音のdurationの単位系を揃え,音の編集精度を粗くするアプローチを取った。このようなアプローチを取った結果,音全体の印象としては間が多く,ミュージック・コンクレートに近くなり,その影響を指摘する人もいた。しかし,それは上記のようなコンセプトに沿った必然である。  

なお自然音を選択する上で,耳の嗜好の影響はあえて気にしなかった。あくまで音と動きの関係だけがコンセプトであり,音のテクスチャに関しては作曲家としてのエゴを消してはいない。  

ダンスの音はどこから聞こえるべきか

 「レモンボム -trio version-」(2005年)の音楽は,「5/6,200,000,000物語」のアプローチをより進化させた形と言える。例によって,振付がほぼ終わった段階から音楽制作の作業に入り,音群をPro Tools上で構成した。さらに,その音群をパーツ化し,4チャンネルのサラウンド・システムを使って出力することで,ダンスの動きと呼応した音群の空間的な移動を試みた。もともとこのアイデアは,レモンボム -trio version-の公演場所が青山円形劇場であったことから生まれた。 空間の対位法とでもいうべきこのアプローチは,ダンスにとって音はどこから聞こえるべきかという命題を与えてくれる。  

映画における上記の命題は,フランスの映画批評家で映画音楽の作曲家でもあるミシェル・シオンが優れた分析をしている。シオンによると,映画における映像と音には,3つの取りうる関係があるという(「映画にとって音とはないか」ミシェル・シオン著,勁草書房,1993年)。  

1番目は「インの音」。その画面内に音を発する音源が見える音だ。2番目は「フレーム外の音」。画面の中には見えないが,音源がその画面と同時の時間にあると想像される音のこと。そして最後が「オフの音」。映画のナレーションのような,画面とは別の時間に存在する音だ。これらの3つの状態は,当然互いに領域を浸食し合ったりもする。例えば,画面に見えている車が走り去っても,音はまだ聞こえるようなケースのように。

音の意味に揺さぶりをかける

 ダンスの音は,映画における「インの音」が極端に少ないことが分かる。ほとんどのダンスの場合,台詞も無ければ,音源を表す道具も通常舞台上にはない。どこから音が聞こえても,それは「フレーム外の音」か,もしくは「オフの音」として捉えられることがほとんどだ。逆にこのようないびつな関係に揺さぶりをかけることは,新しい表現につながる。  

レモンボム -trio version-で取ったアプローチは,インの音として捉えられる可能性がある自然音(鳥や虫の鳴き声)や生活音を,立体的に動かすことだ。ダンサーとの関係によって,フレーム外の音がインの音(ダンサー自身が音源と思われるような状態)へと変化したり,フレーム外の音とオフの音の領域があやふやになる。  

さらなるアプローチとして,音源自体を舞台上に置く方法もある。7月に予定しているレモンボム -trio version-の再演では,スピーカー自体を音源として舞台上に設置することを計画している。もともと楽器としてのスピーカーに着目して計画していたが,その面を強調すればするほど,インの音,オフもしくはフレーム外の音の境界が曖昧になるのも確かだ。

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以上が,ダンス作品に対する近年のアプローチの数々である。あまりに散発的な試みでしかないため,これらが体系的な方法論としてまとまる可能性は低いだろう。それよりは,こうしたアプローチの中から,新しい表現につながる何かをつかみたい。



 堀越 功(ピアニスト,作曲)